魔女の宅急便に見るフリーランスとしての在り方

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「13歳で修行の旅に出る」なんてトンデモない。ホウキに跨って飛ぶ魔女だけに。「私、修行中の身なんです。魔法がなくなったら、私、なんの取り柄もなくなっちゃう…。」自分の場合は、どうだろうか。魔女の宅急便に見るフリーランスとしての在り方。

フリーランス100年物語「魔女の宅急便に見るフリーランスとしての在り方」

仕事中のBGMを何にするのも自由。事務所に自分一人しかいない身であるフリーランスとしては、これは何物にも代えがたい特権である。

邦楽、洋楽、なんでもござれ。ラジオでもいいし、映画でもいい。都会の喧騒でもよければ、場所を変えて川のせせらぎや小鳥のさえずりが聞こえる、なんてのも最高だ。

とまぁなんでもOKなわけだが、時間と場所の都合で、結局は限られてしまう傾向にある。

文章を書くとき、例えば今まさに書いているこの瞬間に、邦楽はもちろん洋楽がBGMである場合、もう何を書くのかがまとまらなくなる。BGMの中の言葉と言葉が、次から次へと頭に入ってきてしまうから。

だから文章を書くときは、メロディーだけを垂れ流すのがいい。ゆっくりと、穏やかに。スローテンポな音楽を聴いていると、ブラインドアタックもすこぶる順調だ。

だがしかし、クリエイティブ(笑)な仕事をしているときには、人と人との掛け合いがバックで流れている方が、よりクリエイティブ(笑)な仕事をしている!気になれる。ハズなのに…。

今日のチョイスは、「魔女の宅急便」だ。

魔女の宅急便

知らない人、もしくは知ってはいるが見たことがない人、が最近は少なくないようだ。

そんな人のために説明すると、「魔女の宅急便」とは13歳で魔女の修行に出たキキという少女が、使い魔となる黒猫のジジと共に、物語冒頭から貨物列車に無賃乗車をし、一晩中足の匂いを牛に嗅がせ続けるという、同じ13歳には見せるに堪えない名作の一つだ。

修行の旅路の果てに出会った街中でホウキを持っているおじいさんから、ホウキを奪うだけでは飽き足らず「血で飛ぶの」と言わんばかりにその場を立ち去るその姿に、周りの人々も驚きを隠せない様子だった。

そんな描写が次から次へと繰り広げられる映画なわけだが、キキも一つだけいいことを言った。「私、修行中の身なんです。魔法がなくなったら、私、なんの取り柄もなくなっちゃう…。」これだ。

取り柄がなくなる

人から取り柄がなくなったら、どうなるのだろうか。これをフリーランスとしての自分に当てはめて考えてみようと思う。

フリーランスとして自分が成り立っているのは、持ち得ている知識と技術が理由だろうか。ともすればそれが取り柄になるのか。これが忽然と無くなった場合、今を支えている周りの環境はどうなるのだろうか。

キキの言ったことから、そんなようなことを考えさせられたのだ。

取り柄がなくなる、というのは、何もある日突然そうなるわけではない。月日を重ねるにつれ、自身が有している知識や技術が役に立たなくなり始めたとき、初めて「取り柄がなくなる」ということを実感するのだ。

自分の場合は、現在持ち得ている知識なり技術だ。少なくとも今は、収入を得られる程度には世の中に通用している。しかし1年後はわからない。いや、1ヵ月後すらわからないのだ。

「取り柄がなくなる。」それをキキは、恐らくたった数日~数週間の間に体験せざるを得なくなっている。ジブリがそういう設定にしたのか、原作もそうなのかは知らないが、13歳の少女には中々に残酷な脚本だ。

フリーランスとしての在り方

結論から言えば、「学び」をおろそかにしてはいけない、というのが自分の中での答えだ。

キキから魔法がなくなるのは、「学び」をおろそかにしたから、ではない。「想い」が自分の中に芽生えたことで、変わることを余儀なくされたのだ。

だから、変わることを受け入れることができれば、元に戻るという形で前に進む。13歳のキキには、変わるという概念すら難しい、あるいはわからない事象だろう。知らず知らずのうちに、もしくは時間が経つにつれ、自然と受け入れ変わっている。

しかし、いい年をした社会人ともなれば、そんな悠長なことは言っていられない。もちろん急ぎ過ぎるのも時には毒だが、常にゆっくり、というわけにもいかない。

フリーランスともなれば尚更だ、と自分では思っている。そう考えているから、行動に移すようにもしている。これはフリーランスになったときから、心掛けることが出来る自分でいようと、考えていたことだ。

学びも想いも

幸運にも、これまでは「学び」と「想い」のどちらかを諦めることもなく、どちらかを優先する必然に出会うこともなく、どちらかとなったときでもそれは自分が選択したからであった、そんなフリーランスライフを送ることが出来てきた。

これからもそれが続くかはわからない。「学び」も「想い」も犠牲にすることを厭わないときが来るかもしれない。

そんなときが来ることを、楽しみだと望んでいる自分がいるし、そんなときをどう過ごすのかで、人生が決まると思っている。そんなときは、人生でたった一度や二度ではないハズだ。何度だってある。

だから、何度だってある一度を、一度でも多く「成長」の機会にすることが出来たなら、心も生き方も豊かになるのではないか、と今は考えている。

魔法がなくなったのは

ところで、キキが映画の中で魔法が使えなくなるのは、「恋をしたから」「大人への階段」「ほかの女の子への嫉妬」と、人によって様々な意見があるようだが、自分はどれもが違うと思っている。

「血で飛ぶの」とキキは言っている。他の魔女には理解できる説明だが、魔女ではない人、例えば絵描きの女の子にはキキの説明は理解はできない。「血か。いいね、そういうの。」と、感情で納得するしかない。

きっかけは「恋をしたから」「大人への階段」「ほかの女の子への嫉妬」かもしれない。しかし意味のある言葉で説明するなれば、「才能」の欠如だと思っている。

個々が持つ力が弱まるときは、人生の中で何度だってある。魔女は飛べなくなるし、黒猫の言葉がわからなくなる。絵描きは絵が描けなくなるし、パン屋は美味しいパンが焼けなくなる…のか?

「スランプ」とも言いかえることができるこの事象は、人によって時によって、千差万別だ。

一人称視点でキキが「私、トンボのことが好きなんだ…」「もう自分は子供じゃないんだから」「あの子はいったい何?」と、言葉にしたり心で思う描写があったなら、先の意見は正しいだろう。

描写はあるが、それは見た人がそれぞれに想像した上で、自分の経験の上で自分なりに考えていることであって。確実なテーマとして作中で掲げられているわけではない。

才能は、意識して使えて初めて才能となるのであって。無意識のうちに使っているうちは、どんなに結果を出したとしても、才能とはならない。回りがどれだけ持ち上げても、自分の中では才能だと捉えていないのだから。

取り柄はなくならない

「私、修行中の身なんです。魔法がなくなったら、私、なんの取り柄もなくなっちゃう…。」この言葉は、本当に色々なことを考えさせられる。キキが魔法を使えなくなったなら、キキから取り柄がなくなるだろうか。

飛べなくなったら、黒猫の言葉がわからなくなったら、取り柄がなくなったということになるのだろうか。

魔女の宅急便の世界では、魔女は珍しいが不変な存在として描かれている。「魔法のチカラって戻るんでしょ?」とオソノさんに聞かれたキキは、「わからない」と答えている。

魔法がなくなったキキは、魔女ではない存在となるのか。ではその存在とは何なのか。いわゆる普通の女の子なのか。では、普通の女の子には、取り柄はないのか。

取り柄なんてものは、自分が自分に求めるものではないし、他人が決めるものでもないし。生まれ持った才能だってあるし、磨き上げていく才能だってあるし。

人生の中で、取り柄が取り柄でなくなるとき、取り柄じゃなかったものが取り柄となるとき、という局面は多分に経験するだろう。人が持つ取り柄なんてものは、その時々で変わるのだから、気にしなくてもいいのだ。

魔法は、誰もが夢見ることだと思う。空を飛べたら、手のひらに火を出せたら、物を空中に浮かせることができたら。自分なら、動物と話せるようになりたい。人間への不平不満のせいで、心が破裂してしまいそうだ。だから、君と話せるようになる、それだけでいい。

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